history2.gif       

大事な「命」、自分の健康は自分の手で守る時代です!

 

 

日本人による醍醐の発見

 さて、メチニコフがノーベル賞を授賞したのが1908年。その少し前の1902年に、ある日本人がその後の乳酸菌の世界に大きな影響を与えるような活動を開始しました。


敦煌莫高窟の遺跡

 浄土真宗本願寺派の第22代法主である大谷光瑞(こうずい)師は、ヨーロッパ遊学中に各国による西域()探検の成果を見聞し、自ら仏教の歴史やその痕跡を探ろうと、西本願寺の留学生ら仏教徒による探検隊を組織し、明治35(1902)年から実に14年間、数度にわたってシルクロード()に沿い、西域に探検隊を派遣しました。これが歴史上も有名な「大谷探検隊」で、チベット高原を含む西域南北両道にわたる遺跡群や、敦煌莫高窟などの探検が行われました。
 光瑞師は「仏教は科学である」という独特の観点から、自ら発掘された仏教の経典を翻訳し研究する仕事などをしていました。

西域

  中国西方を意味して使われる西域という言葉は、一般には東は敦煌、西はパミール高原、北は天山山脈、南は崑崙山脈に囲まれた地域を指し、つまり中央アジア・西アジア全域や、時にはインドまでを含めて使われます。
 狭義の解釈としましては、漢時代に西域36国と総称されるオアシス年国家が分立した、タリム盆地のあたりを指します。

シルクロード(絹の道)

  十九世紀 ローマ帝国と漢を結ぶ公益路が「絹の道」と命名されました。中国からタリム盆地周辺のオアシス都市を経由し、パミール高原を経由して西アジアを結ぶ道のことです。
 しかし絹の道はそれよりはるか昔から、文化や宗教など、そして人間もまたこの絹の道を通って運ばれ、土着の文化と影響しあって移動していったのでした。
 やがて海上輸送の発達にともない、西域を経由した交易ルート、絹の道は次第に忘れられていきました。

 さて、釈迦が説いた仏教とは、すなわち仏となるための道を示すものであり、人生は苦であることから出発し、八正道の実践によって解脱し、涅槃に至ることを説く宗教です。光瑞師は仏典の中でも特に梵文教典に興味を持ち、それを翻訳する過程で、ついに涅槃経の教典の中に、腸内細菌に関連のある経文を見つけ出しました。 光瑞師がそれを科学的に解釈したところでは、仏教の教えは精神的な訓辞だけではなく、その中には科学的に人間を救う方法まで述べられている、というものです。
 そしてさらに涅槃経の中には具体的に「醍醐」という名前でそれが存在し、醍醐の製造方法が書かれている部分まであったのです。 光瑞師が着目した涅槃経の中のその部分とは、 『・・・善男子、譬えば牛従り乳を出し、乳従り酪を出し、酪従り生蘇を出し、熟蘇従り醍醐を出す、醍醐は最上なり。若し服すること有る者は、衆病皆除こる。所有の諸の薬は、悉く其の中に入るが如し。・・・』という件(くだり)です。
 これらを前後の部分と合わせてを訳しますと、涅槃経は醍醐の様であり、醍醐を飲めば全ての病気から解放される、という意味です。
 つまり、醍醐さえ飲んでいれば薬は不要、という事が暗示されているのです。 教文を簡単に言い換えると以下の様になります。

牛乳は乳である
乳は酪と変わる
酪は生蘇と変わる
生蘇は熟蘇と変わる
熟蘇は醍醐と変わる

 暗号の様なこの文書を解読することによって、 腸内細菌に関連した、人間の大きな課題であり夢である、長寿の秘訣が解き明かされたのです。
 さて、この中に出てくる乳・洛・生蘇・熟蘇・醍醐という五つの単語が何を表しているのかという事が大きな鍵になります。そして光瑞師が解き明かしたこれらの単語の解釈は次の通りです。
 乳とは細菌を培養するための培地に相当します。酪とは乳の中から脂肪分を取り除いた物の事で、一般に、乳酸菌は脂肪分を嫌うため、培養の際には培地の脱脂が必要です。
 また生蘇とは生きた菌、すなはち培養に使用する乳酸菌の事です。この生きた乳酸菌が協力し合って成熟してゆきます。そして生蘇の分泌物が醍醐というわけです。この醍醐の中には生きた菌は全く存在しません(醍醐には芳醇な香があって美味しいため、「醍醐味」という言葉はまさしくこの醍醐が語源だったわけです)。
 醍醐を飲むと、腸内細菌の状態がバランスよく安定し、腸内環境に働きかけて人間の健康に大きな力を及ぼす、とメチニコフより前に釈迦はすでに悟っていたわけです。
 細菌学の世界では、菌そのものだけではなく、菌の代謝物が人間の体に体に対して一定の効果を持っている事が、ペニシリンなどの抗生物質の誕生以来、次第に明らかになってきましたが、驚くべきことにはるか3000年も前に釈迦はそれを解明し、仏の慈悲に例え涅槃経の中で説いていたのです。
 確かに、ブルガリア地方の長寿の人達はヨーグルトを常食していたために長寿であったのですが、メチニコフの理論は、菌そのものの効能を追求するところ止まりであったわけで、長寿の原因が、生菌ではなくてヨーグルトに同時に含まれていた乳酸菌生産物質だったことを発見できなかったのです。
 捨ててしまっていた他の菌とが共棲状態が、菌の活性度を上げる事や、長寿の源である、生体の免疫力を上げる機能を持つ成分が代謝物に含まれていた事には、全く気がつかずにいたわけで、彼の理論はここに欠陥があったとも言えるでしょう。
 通常、細菌類を単独で培養する「純粋培養」の場合は、栄養素である培地の中で、温度などの環境が整えば誰でも簡単に菌を増やすことができるのですが、何種類もの菌を同時に育てる共棲培養となると、それぞれの菌がその持つ性質や特徴、代謝物によって反発したり死滅したりする為、有効な培養を行うことは出来ません。
 後に光瑞師は中国の大連に「大谷光瑞農芸化学研究所」を設立、研究所のスタッフは腸内細菌の代謝物(生産物質)の研究を進め、十六種類の菌を単独で培養し、最終的にあるタイミングと温度と菌の組み合わせで共棲培養することにより、仏典にある醍醐を抽出することに成功しました。
 16種類の菌による共棲培養というものは、実は極めて特殊な培養方法です。現在ですら、専門家の間では菌の培養は単独で行うべきものとされており、多種の菌種を同時に培養するなどという発想は、現代の科学者には理解し難い方法です。
 それは、培養そのものが菌の活性度の強化などに充重点が置かれているためであり、菌の培養中に代謝される産生物にまでは、目が届いていないからなのです。
 しかしこの共棲培養の原理は、実は100種類100兆匹もの細菌が共存している人間の腸内で行われている事と同じであり、不思議な現象でも何でもありません。
 共棲培養の間、各菌種は互いに拮抗し合いながら強化されてゆき、結果、各菌が分泌した代謝物には、各種のアミノ酸やビタミン類などをはじめ、腸管を介して免疫力に直接働きかける成分までが多く含まれているのです。

日本での乳酸菌研究の歴史

 日本で最初に乳酸菌に着目したのは、京都に住む正垣角太郎氏でした。彼はメチニコフの発表した長寿論を読んで感銘し、自らの胃腸病の克服の為に日本で初めてヨーグルトを自分で製造、飲用を始めました。
 やがて正垣氏は胃腸病を克服し、大正3(1914)年、京都で乳酸菌飲料の製造工場を造り、乳酸菌の世界へ大きく乗り出しました。当時は乳酸菌などの研究が素直に受け入れられる時代ではありませんでしたが、氏のねばり強い研究と努力が続けられ、製品の宣伝販売活動も精力的に展開されていきました。
 子息の正垣一義氏もまた、医学を勉学するかたわら角太郎氏の仕事を手伝うようになり、その後、正垣氏らは乳酸菌をもとに医薬品や農業用肥料なども開発するようになりました。
 第一次世界大戦の勃発や大正デモクラシーの中での経済的な危機も乗り越え、正垣親子は通 信販売なども活用しながら販売を拡大し、販売数を次第に増やしていきました。さて、メチニコフが腸内での乳酸菌の働きを発見した頃、同じくフランスのパスツール研究所では1899年に、テイシェという研究者により乳幼児の腸内からビフィズス菌が発見され、そして翌年にはアシドフィルス菌(乳酸菌)も発見されていました。
 ビフィズス菌とアシドフィルス菌は当時、同じ菌種と考えられていた為、正垣親子もこのアシドフィルス菌を使った共棲培養による乳酸菌飲料の生産を始め、その芳香と美味がうけて爆発的に売れ始めました。
 昭和に入ると、ブルガリア菌などの乳酸菌が分類されて一般でも手に入るようになり、4種類の共棲培養によって乳酸菌飲料が作られるようになりました。昭和4(1930)年の世界大恐慌の影響も受けず業務は拡張されていき、正垣親子は東京でも営業活動を開始しました。
 ところが、好調な販売実績に支えられた忙しい毎日のなか、一義氏は最愛の妻を病気でなくしてしまいました。失意の中、心の拠り所として仏教の道を模索するなか、一義氏は「日本一の仏教者は大谷光瑞猊下である」との明言を受けた後、大谷光瑞師の主宰する「光寿会」に入門、光瑞師の教えである仏教真理の科学的追究という道に入っていったのでした。
 奇しくも、一義氏の専門が乳酸菌の研究であったことは、まさに運命の巡り合わせとも言うべき事でした。大谷光瑞師の説く「仏教は科学である」という理念、そして病気で妻を失った一義氏にとって、人間の命の儚(はかな)さを嘆くよりも、仏という究極の状態を目指すための寿命論、腸内細菌による生産物質の研究を行う事は、まさに天から与えられた使命でもあったのでした。

 大正時代、京都で乳酸菌飲料を製造していた
 正垣角太郎氏(写真左側)の施設

共棲培養と生産物質

 さて、昭和15(1941)年頃には、光瑞師は既に中国の大連に「大谷光瑞農芸化学研究所」を設立、同時に数種類の乳酸菌による共棲培養方法の開発に成功していました。
 昭和16(1942)年、日本は第二次世界大戦に参戦、陸軍軍医学校に於いても乳酸菌生産物質の効力が立証され、戦地の兵士の保険用として研究され、実際に戦地で効力の実験も行われていました。
 一方、一義氏は昭和20(1946)年、乳酸菌飲料の生産準備のため、中国の大連に渡航した際、当時上海在住であった念願の光瑞師に拝眉し、それまでの乳酸飲料から、その生産物質の研究に方向転換することになったのでした。
 ここに、師と仰いでいた光瑞師と共に、いよいよ乳酸菌生産物質の共同研究が始まったのでした。
 その後、終戦を迎える頃までには、共棲培養の研究はすでに16種類の菌種を使用した生産物質を取り出すところにまで及んでいました。
 光瑞氏は一義氏に、日本でも大谷光瑞農芸化学研究所を設立することを命じた後、大連からの引き揚げ船に乗船、佐世保に入港しました。1カ月後には一義氏も無事、引き上げて来ることができましたが、光瑞氏は翌昭和23年の10月5日に病気のため亡くなってしまいました。  帰国後、一義氏は大谷光瑞農芸化学研究所を引き継ぎ、焼け野原となった東京で新たに会社を設立し、乳酸菌生産物質による食品、香料、自然防腐剤などの開発に着手、新製品を次々と開発、現在の共棲培養法の基になる技術を確立したのでした。
 その後、乳酸菌生産物質の研究は敗戦の混乱による紆余曲折を経ながらも、研究者の手によって脈々として続けられてきました。
 昭和60(1985)年11月7日、正垣一義氏は、腸内細菌に捧げたとも言うべき、その84年の生涯を閉じることになりました。
 近年になって、乳酸菌生産物質はやっと各方面で脚光を浴びるようになり、一般にも広く知られ評価されるようになりましたが、その本質にせまるものは、戦前の大谷光瑞農芸化学研究所から現在に至る、正垣氏ら研究者による永年の地道な研究と改良の歴史の上に培(つちか)われた培養技術なのです。

おわりに

 正垣角太郎氏のヨーグルトは様々な製品の形をとりながら、長い歴史の中で完熟の度を強めてゆきました。
 正垣一義親子の功績は、単なる乳酸菌の研究にとどまらず、仏教真理の追求を念頭に置いた、たゆまぬ努力が実ったものであります。単に学術的研究、或いは営利至上主義で事業に従事していたならば、現在、乳酸菌生産物質が世に出ることは決してなかったでしょう。

昭和30年 義報社研究室での正垣一義氏


                                     

大事な「命」、自分の健康は自分の手で守る時代です!

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送